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いわゆるメディア・スクラムをめぐる問題点について
──秋田・連続児童遺体発見事件の現地調査を通じて考えたこと── 飯田正剛 (弁護士) はじめに 二〇〇六 (平成一八年) 六月三日 (土曜日) 及び同年同月四日 (日曜日)、私は、いわゆる秋田・連続児童遺体発見事件の現地( 藤里町、能代市、 秋田市等) に入った。東京弁護士会・人権擁護委員会・報道と人権部会の意向を受けて、部会長の西岡弘之弁護士と人権擁護委員会委員長である私が、 いわゆるメディア・スクラムの状況などを調査するためであった。 本稿は、このような調査を通じて、私が考えたことを中心にして、メディア・スクラムの問題を論じたい。しかし、本稿は、東京弁護士会の (公式) 見解ではなく、 あくまでも私自身の見解にすぎないことをお断りしておきたい。 今回の調査やその前後の報道を見て、私が考えた問題点は、多岐にわたる。ここでは次の点に絞ることにする。 第一に、いわゆるメディア・スクラムの是非である。 第二に、メディア・スクラムへの対応のあり方である。 第三に、そのようなメディア・スクラムへの対応をどのようにチェックするのかという問題である。 メディア・スクラムとは何のためだったのか 今回のメディア・スクラムとは、何のためだったのか。一つには、畠山鈴香被疑者に対する逮捕・捜索、 任意同行を求めるなど警察の動きを監視するということがあげられる。二つには、畠山鈴香被疑者が逮捕される、 いわゆる任意の事情聴取に応じる 「決定的瞬間」 を撮影するということがあげられる。 しかし、このような目的・趣旨があったとしても、今回のメディア・スクラムは、合法・適法であろうか。 私は、今回のように、@ 公人ではなく事実上の被疑者であっても、A 一般市民の自宅周辺において、B 24時間監視する方法で、しかも、 C 買い物等のプライベートな外出の場合に追尾するなどの行動を取るなどして、D 取材対象者からメディア・スクラムに対する抗議を受けながら、そして、 E 他の報道機関の同種の行為を知りながら、F 取材対象者に対して深刻な不安感・不快感を与える取材行為を継続して行うメディア・スクラムは、 平穏な私生活を乱すプライバシー権の侵害であって、違法な取材行為であると考える。 従来、メディア・スクラムの問題については、違法か合法(適法)かという法的観点の問題なのか、いわゆる報道倫理に反するかどうかという倫理の問題なのか、 必ずしも明確ではなかった。 私は、前述したように、@ 取材対象者、A 取材場所、B 取材の方法・手段、C 追尾等の有無、D 取材対象者の対応、E 共同性の認識、F 取材対象者への影響、 などの諸要素を総合的に検討して、メディア・スクラムの合法性(適法性) を判断すべきであると考える。 このように、私は、今回のメディア・スクラムは違法な取材行為であると考えるが、実際に、メディア・スクラムを行っていた記者には、 そういう認識・自覚はなかったのであろうか。少なくとも、報道倫理に反するかもしれないという思いはなかったのであろうか。 二交代や三交代というハードな 「仕事」 (取材) が、まちがっているかもしれないとは考えなかったのであろうか。 そもそも、現場にいた記者は、何を取材して、何を報道するのか、自分自身の問題として実感しながら自問し、他者と議論することをしたのだろうか。 また、記者たちは、「現場に張り付いて写真を撮って来い。」 という上司の命令に、「おかしい。」 と一言言い返すことはできないのか。 問答無用の命令に、対抗することはできないのか。「ほかにやることがある。彩香ちゃんの死亡が事故なのか事件なのか、川の流れや川底の状況などを調べたり、 彩香ちゃんの死体の損傷など法医学者の見解を聞きたい。そもそも彩香ちゃんは解剖されたのか、解剖結果はどうなっているのか、 能代警察署にも取材したい。」 「日本での川の事故は、どうなっているのか。殺害して川に棄てるという事件は、どれくらいあるのか。」 私には、メディア・スクラムを組む以上に、取材すべきことがらが、山のようにあると考える。 そもそも、メディア・スクラムを命じた記者の中で、メディア・スクラムの現場に来た記者は、どれくらいいるであろうか。現場にも来ないで、 平穏な私生活を乱すプライバシー権の侵害の違法な取材を命じる記者は、メディア・スクラムの必要性と合理性について、どのように説明するのであろうか。 より根本的には、違法かつ非倫理的なメディア・スクラム行為は、後に 「極悪非道な被疑者」 として逮捕・起訴されることによって、合法化されるのか、 倫理に反しない行為として追認されるのか、という問題がある。大きな声で言わないだけであって、記者たちは、心の底で、 そのような合法化・追認をしているかもしれない。しかし、そのような合法化・追認を認めることは、結果として 「リンチ」 を認めることではないだろうか。 私は、そのような 「リンチ」 を認めることは、大きく言えば、「近代」 を否定することではないかと考える。個人の尊厳を重視し、個人の人格を尊重し、 合理的で科学的な精神をもって、市民社会を作っていく、という近代精神を報道機関が自ら捨て去るとき、「ジャーナリズム」 は死滅した、と言うべきであろう。 警察の「仲介・斡旋」 今回、秋田報道懇話会は、六月二五日、「秋田報道懇話会の申し合わせ」 を行った。メディア・スクラムに対する 「節度ある取材」 を呼びかけるものである。 しかし、今回のメディア・スクラム及びその対応において、最も問題なのは、警察の 「仲介・斡旋」 があったこと、そして、そのような警察の 「仲介・斡旋」 に対して、 報道機関・記者自身が、ほとんど 「抵抗」 「疑問視」 してないことである。つまり、犯罪・事故被害者、取材・報道被害者は、報道機関自身に対してではなく、 警察に対して、メディア・スクラムの対策・対応を相談するのであるが、今回も、同じことが起こり、そして、報道機関は、そのことにほとんど無自覚なのである。 畠山鈴香被疑者が、心ある報道機関関係者のアドバイスを受けて、BPO (放送倫理・番組向上機構) に対して、対応を求め、BRC (放送と人権等に関する委員会) は、 六月二五日、「秋田の地元局や東京キー局とNHKに対し、本件の取材にあたっては節度をもって対応するよう求める要望を行った。」 ことから、 警察などの権力機関の仲介なしに、自主的に対応できる機会があったにもかかわらず、警察を排除する努力もしないまま、警察の 「仲介・斡旋」 を認めたのであった。 このような無自覚さは、メディア・スクラムへの対応をチェックするという姿勢に欠けることとつながり、また、警察情報への依存という報道姿勢にも関連する問題である。 そして、このような自主的解決の努力の不足の問題は、報道機関のみの問題だけではなく、弁護士会、 私が属する 「ランビック」 (報道被害救済弁護士ネットワーク) をも含めて、市民社会全体の問題でもある。 つまり、市民社会の一構成員である報道機関が、人権侵害 (法律違反) や報道・取材倫理違反の疑いのある行為を行っているときに、強大な権力をもつ警察に対して、 その対応策・解決策を求めるのか、権力の介入を求めず、市民社会の構成員同士が、知恵を絞って、対応・解決していくのか、 という市民社会の成熟度の問題そのものなのである。 チェック機能の不存在 言うまでもなく、民主主義の重要な点は、権力のみならず、私人(市民)の権利侵害などの違法な行為に対して、様々なチェックが働くことである。 ところで、今回のメディア・スクラムに関して言えば、このようなチェック機能は、不十分であったと言わざるを得ない。 前述したように、私は、今回のメディア・スクラムは、違法であると考えるが、少なくとも、(取材) 報道倫理に反するおそれが大きいのではないか。 そのような (取材) 報道倫理に反するおそれが大きい取材行為が行われた場合、事後的に、検証する必要性・合理性は極めて高い、と言うべきである。 本来、倫理とは、自ら自己の基準に基づいて律することを指すものであるならば、他者に言われるまでもなく、自己チェックするのが、当然ではないだろうか。 このように考えれば、「秋田報道懇話会」 が、五月二五日の 「申し合わせ」 に関して、どれだけ遵守できたのか、遵守できなかったものがあった場合、 なぜ遵守できなかったのかなど、検証すべき点は多い。 また、メディア相互の批判は乏しい。メディア・スクラムを経験した報道機関は、「秋田」 だけではない。今までの各地のメディア・スクラムとは、どこが違うのか、 同じような間違いがあるとしたら、なぜ繰り返されるのか、様々な経験を通じて、議論すべき点は、多い。 そもそも、報道機関が市民社会の構成員であり、「当事者自身」 であるという自覚がないため、メディア検証の恒常的スペース (欄) さえない新聞が多いことは、 おおいに反省すべきである。 また、他の分野と同様に、労働組合、研究者、弁護士会などの批判もほとんどない。「報道機関は市民の代表として、取材し、報道する」 という観点から、 もっと、市民が報道機関を批判し、検証し、育てていくという発想が必要である。そもそもの問題として、報道機関に対する市民の不信が根強いものであること、 そして、報道機関が依然としてそのことに無自覚であることを指摘したい。 おわりに いわゆるメディア・スクラムの問題は、今後も、引き続き起こるであろう。今回の調査やその前後の報道を見る限り、まだまだ、変革すべき点は、多い。 当然のことであるが、何を取材して、何を報道するのか、自問し、他者と議論するなかで、変革していこうという強い意思と行動が必要である。 犯罪報道は、犯罪の原因・背景などを追及して、同じような犯罪を防ぐために、取材・報道されるべきではないのか。 任意同行の写真を撮る、という横並び意識に囚われて、従来の取材・報道を続ける限り、市民の信頼を失い続け、権力の規制はより強まっていくであろう。 「市民と権力からの挟撃」 という報道機関の置かれた重大問題・基本構造は、報道機関が変わらない限り、自然に変わるものではない。 報道機関が変われば、社会が変わるかもしれない、ということは、大変なことではないのか。 変わらない、変わろうとしない報道機関に、絶望し始めているのは、私だけであろうか。 (マスコミ市民 2006年8月号)
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